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毎日は書けないだろうけど書けたら書こうと思います。備忘録としてとか言い訳しないのが目標です。

趣味ってなんだ?

 

経験してないことがたくさんある。

 

当然の話だって思うかもしれないが具体的に何を経験してないかわかってない人が大半なのではないだろうか。思い出すのも数えるのも無駄である。なにせもう「終わったこと」なのだから。

 

経験して無駄なことは何もないと言うのは他愛もないと思っていたことが何らかの形で生きた人が言う言葉だ。

これも経験だって思って毎日を生きる人なんてそういないと思う。いたとしたらそれは自分の寿命を知ってる人だ。

 

18年くらい生きれば生きる上で何が必要か大体わかってくる。

誰もが手を差し伸べてくれるのは人当たりが良くて相手の劣等感を刺激せず、ポジティブな人だということだったり、お金があって家事がそこそこできればまぁ死ぬことはないこと。人の話はメモした方がいいこと。友達は多い方がいいこと。タバコは吸わない方がいいということ。お酒は飲み過ぎない方がいいということ。何事も調子に乗り過ぎない方がいいこと。夜更かしはしない方がいいこと。世間と照らし合わせて変だと思うことは発信しない方がいいということなどなど。挙げればキリがない。

 

逆に言えば今考えつくものを経験してれば他にいらないと言える。何ならもっと少ない人もいるかもしれない。

 

我々は生きる上で少ない労力で済むことをわざわざ自分で複雑にしたり遠回りしている。

それを人生の楽しみとしてる人もいるしそれに気付かないで他の人に言われたから馬鹿みたいに労力を割いてる人もいる。

 

気付いた人が有利に思うがそれは間違いである。気付いてしまったらもう思う存分楽しむことは不可能なのだ。

ドッキリにかけられていることに気づいたらもう生のリアクションは得られない。

そしてこれは推測の範疇だがこのことを説明したとしても気付かない。

 

気づいてしまった人の残された道としては如何に省エネで生きていくかということと自分を騙して取り繕ったリアクションを取り続けることだ。その二択に気づいた時、迫られた時のなんとつまらないことか。はっきり言って人生が楽しいと思ったことは1回もない。

 

ただ寿命が来るのを待っている。これが基本軸になってくる。自分の身辺は好きなようにできるのでその間に結婚があったりするだろうがそれはあくまでイベントであってステータスなだけで世界が変わらなければつまらなさは一緒である。

 

だから趣味に走る人が多いのだろう。

 

社会人になってやたら聞かれる質問だ。

趣味は?

休日なにしてんの?

 

上記の過程を自然と経てるから聞かれる質問だ。要は人となりを知りたいということ。

 

その上で無趣味な人間は趣味でさえも取り繕うしかない。

最近はドライブということにしている。ドライブなら干渉されないし趣味っぽい。

下手に人間観察なんて言ったら無趣味丸出しな上に観察することで人の優位に立ってるつもりの痛いやつと思われておしまいだ。

 

たまにミスコンのプロフィールで普通に趣味欄に人間観察って書いてあるが正気の沙汰ではないと思う。

私は見た目に自信がありますから周りの人間を見下してますよって言っているのとさほど変わらない。

まぁミスコンに出るような高飛車な女だから納得といえば納得だが。

 

人間観察が趣味なら誰か特定の人について1ヶ月観察し、1日のサイクルを把握した後、行動の移り変わりやその時の心理状態など細かくつけてレポートを作成し、自宅に保存して実際にその人と親密になった時に照らし合わせるくらいのことはしてほしいものだ。

 

人間観察ということで高飛車な人間ということはわかる。たしかに趣味は人となりを表すものなのだ。

 

さてドライブと言った時、車が好きなこと、旅行又は遠出が好きなことが想像し得る。

困ったことに分かることといえば外に出るのが好きなことくらいだ。

どっか遊びに誘うにはいいかもしれないが肝心の人となりはわかりにくい。

 

いっそのこと趣味は人間観察にしてしまおうか。いつか人となりがわかる趣味に出会いたいものである。

 

 

 

 

 

野球と好きと

野球が好きである。

 

ちゃんとルールを認識したのはパワプロくんをやり始めた小学五年生から。

それまでは球場で試合を見るもののホームランにしか興味がなかった。ホームランしか知らなかったからだ。

 

ともかくそのくらいから現在まで野球が好きである。中学の時は土日にクラブという名の草野球をやってた。ほぼ負けてばっかりだったが自分が上手くなるのがわかるので楽しかった。成果が目に見えると嬉しいものである。

 

なんで楽しいのか、好きなのか自分では気付き辛いので野球が嫌いな人の観点から考えてみた。

 

野球が嫌いな理由としてルールがよくわからない、制約が多い、待ち時間が長い、速い球を投げて何が偉いかわからないなどなど挙げられる。

たしかに野球はルールがわかりづらい。色んな局面に合わせてそれぞれ細かい規定がある。バッターの場合やランナーの場合、守備についている場合と様々だ。よくここまで局面を想定してルールを作ったものだと感心するほどである。

 

当然ながらルールがわかりづらいから好きなのではなく、限られた中でプレイする面白さがあるから好きなのだと思う。色んな人が関わって、色んな場面で色んな制約があって…と考えて行くといつも暮らしてる社会と何ら変わらない。野球は社会の縮図なのかもしれない。

 

ずるい。よく言えば賢いプレイも様々だ。

ランナー1、2塁の場面で3塁がフォースアウトになるためサードは塁をあけられない。なのでサードの前にセーフティバントをするだとか。つまり何がずるいかといえばこの状況ではサードは動けない状態でボールを処理することを求められるということである。

 

これは攻撃側の話だが守備にだってトリックプレイはある。騙す、意表つくといった卑怯なやり口も野球では受け入れられる。敵対したチームがそれぞれの思惑で勝利に向かって色々なことを画策するのだ。ただでさえ制約のあるゲームであるのに参加者の心理的影響も受けやすいというなんともしがらみが多く、勝敗の結果がつきづらいスポーツであると思う。

 

これに加え選手も個性豊かで全てのことに秀でている人もいれば一芸がある人もいる。また雰囲気を盛り上げるなど数字に表れないところで貢献している選手もいる。その人の何十倍努力しても追いつけないような才能の持ち主もいる。不公平だ!と叫びたくなるがそれでも野球をやるということはそんな人が相手でも全く敵わないわけではないということだ。完璧な人間はいないなんて野球に限った話ではない。

 

だからサッカーのようにジャイアントキリングなんて大それた言葉は野球には存在しない。昔からそういったゲームが当たり前にあるからだと思う。

たしかに最近の高校野球をみていると明らかな戦力差があるような試合もある。コールドなんてルールもあるがなんで7点差や10点差まで適用されないかといえば勝てる可能性がお互いにあると考えられているからだ。

 

試合が始まる前はみんな平等だ。始まってからどうプランを立てて実行していくかが大事なのである。野球は人生だ!なんてことは腐っても言いたくないが、1番人間臭いスポーツだと思う。

何が言いたいのかというと野球が好きな人はおそらく人間が好きなのである。

 

私もその1人であるはずなのだがどうなんだろう。自覚はないが人間が好きですってなんだか気持ち悪い。好きという気持ちは自分には当てられないのかもしれない。磁石の同じ極同士のような。自分が好きって人は自分が好きな自分が好きなのだと思う。一個離れて俯瞰で見ている。自分で作り出したキャラクターを愛しているような感じがある。直接自分という人間を好きになれる人っていないんじゃないのかなぁ。

 

まぁともかく私が野球が好きな理由とおっさんが野球で例えることが多いのはそういうことだ。

 

 

 

そもそもなんで

そもそもなんでこれ始めようと思ったのかといえば自分の思ってたこと考えていたことを書き留めとけば後から見たとき思い出として振り返れるからだ。

 

嘘だ。

 

オードリー若林正恭のエッセイを読んでいたら自分の角度でこんなようなこと書けんじゃねーかと思って始めたのだ。

 

まぁ嘘とは言い切れない部分はあるけれど最初の理由は全体の20%くらいしか占めてない。

 

オードリーのANNをここ数年聞いているのだがどうしても熱狂的なファンにはなれない。好きは好きなのだが。番組本買っちゃうくらい。

 

熱狂的なファンて女の人に多いんじゃないかと思う。女の人は感情を表に出すのが本当にうまい。ビートルズが初来日した時にパンツ投げた人いたらしいけど多分本当だろう。

 

熱狂的であれば演者としては嬉しい。良いリアクションされると気分も乗ってくる。学生時代舞台だったりライブだったりで人前に立ったけど舞台から客席はよく見える。従ってダイレクトにリアクションが伝わる。

 

母親がクリエイティブな仕事してたり妹が美術高校に通っていたり、父親が何年も趣味でベースをやっていたり、昔からやたら表現に囲まれた環境で生活している。

 

信じるか信じないかは勝手にしてほしいのだが小学生の時はLed ZeppelinのBlack Dog、BOØWYのマリオネット、L'Arc-en-CielのStay Awayなどのベースイントロで毎週日曜起こされていた。曲名もバンドも知らないけどベースラインは知ってるという謎の状態だった。

 

そういった影響もありロックミュージックには詳しい。中学の時にはニューウェーブにハマった。今でもおっさんと話してるとお前何歳だよとよく言われる。懐古主義なわけじゃないけど古いものの方がオリジナリティが強くて聴いてて楽しい。

 

そうだ音楽の話ついでに文句が言いたい。

 

中学のころニューウェーブにハマったと言ったが特にJapanというイギリスのバンドをよく聴いていた。はっきり言って暗くて内省的な歌詞なので中二感バリバリなのだが好きだった。今でもたまに聴いている。

 

このバンドはフレットレスベースをデビューしてからずっと使っていて弾き手はミック・カーンという。ミック・カーンのベースラインは変わっていてどこが切れ目なのかわかりづらい。フレットレスなこともありよりわかりづらい。しかし癖になり真似したくなる。もうこの世にいないが好きだ。今も好きだ。なんなら顔も好き。

 

そんな中学時代を過ごす中、個人的に衝撃的なニュースが流れた。なんとOKAMOTO'Sのハマ・オカモトが最近Japanを聞いていると公表した。

 

やりやがったなと思った。

 

ハマ・オカモトといえば当時は公表していなかったがダウンタウン浜田雅功の長男であり、ベース界(そんな世界があるか知らんが)の超新星であった。実際当時もOKAMOTO'Sは聴いてたし好きだった。ハマ・オカモトのベースはジャック・ブルースジョン・エントウィッスルのようなスタイルでなんならアルバム5枚分くらいパソコンに入っている。でもハマ・オカモトと言えばルーツはブラックミュージックであり、白人系のものには興味がないと勝手に思っていた。

 

完全に油断していた。

 

もうこれでいくらミック・カーンが好きと言ってもヒゲメガネ乳首が後ろからついてくる。ずっと前から好きだった!と言っても無駄だ。それが芸能人パワーというものだ。

少なくとも若い世代や同年代には明かせない。

 

OKAMOTO'S自体の知名度もそんな高くないからいらない心配かもしれないけどミック・カーンの名前を出した時にそこにつながる可能性があるならもう触れたくない。

 

とりあえず訴えたいのは有名人が音楽好き押し出すのは結構だけどもうちょっととっつきやすいポピュラーなやつにしとけよってことである。

 

結局Japan聴く人増えたのかな?聴いてみたけどよくわからなかったっていうのが大半だと思うんだけどハマ・オカモトから影響受けた人なんて。本気で好きなベーシストはパーシー・ジョーンズってことにしようかと悩んでいた。ハマのTwitterにお前はジャコパでも聴いとけタコって送ろうかと思っていた。

 

今思うとある種アイデンティティに近かったのだと思う。自分だけが知っている良いもの、かっこいいものが取り上げられたような気分だった。こんな10年近く前の些細なことを鮮明に覚えているのだから本気で怒っていたんだろう。自分の自意識過剰具合に驚く。

 

自意識過剰でプライドが高いのにそもそもなんで人前に立ったのか、こんなブログを始めたのかすごい恥ずかしい自惚れた理由だが自分が特別だと信じているからだ。名前も声質も独特だし唯一無二の要素が周りより揃っている。と思っている。根底にはそんな自意識がある。

だからやってみてダメな時に初めて平凡だと認識する。言ったでしょ馬鹿だって。馬鹿なんだよ本当に。

 

あぁ!

私は馬鹿である。

 

情報処理能力に欠け、融通も利かず、愛想笑いもできず、無表情で怖がられ、後先考えず行動し失敗する。

 

怖がられることと馬鹿な関係がないように思うかもしれないが怖がられるとはコミュニケーションをとるに当たって明らかな障害だ。

 

しかも怖がられてることは本人にはわからない。仲良くなって後から聞くか、回り回って他から聞く以外方法がない。

 

無意識に人を威圧してるのか、先天的な造形に畏怖を感じるのかは知らないが怖がられるのは馬鹿が関係する現象であると思う。

 

不良だのヤンキーだのもそうだ。「こいついい奴なんだぜ実は」と言われても「実は」という文言には「見た目から想像できないが思ったより優しい」という意味が凝縮されている。

 

要は人と関われない、又は関わるのが下手な人が馬鹿の定義だと思う。

 

友達が多い人は何歳になってもすごい。

どういうつながりで?どういう環境で?どんなきっかけで?そもそも最初なんて話しかけたの?このSNS普及の時代で内向的な人が増えたのにどうやって仲良くなれたの?なんで?なんで?コミュ力というものに全て含まれるのだろうけれど解き明かされたらみんながみんな友達が増えるわけでもないので多分誰もこの先解き明かそうとはしないではないだろうか。研究はするけれど。

 

友達の数がその人の世界の広さと比例することをはっきり誰も言わないが小学生が教わる童話にもあったり、いろんな大人が友達を作れ!大事にしろ!増やせ!と言ってくる。作って増やした結果どうなるのかは誰も言わない。

 

貯金の考え方に似ていると思う。

 

世の中には将来に対する漠然な不安に向けて金さえあればなんとかなるからとコツコツ貯金してる人はたくさんいるだろう。すごいと思う。というかとてもじゃないけどできない。

 

私は将来何に使うかも決めてないのに漠然とお金を使うことができない。お年玉も毎年三が日で使い果たしてた。

 

だって欲しいものがあってそれを買うお金があるから。ほかに理由がない。その瞬間に欲しいと思ったもの以上のものはその時には存在しない。それ以上のものが出なかったら買わなかったことを一生後悔する。

 

明日死ぬかもしれない。一週間後死ぬかもしれない。警察がいて信号があってどんな施設もセキュリティがしっかりしていても絶対に死なないとは断言できるはずがない。

 

ゴキブリだって出て来た瞬間まさか叩き潰されるとは思ってない。

 

話が逸れたがつまり貯金とは死なない前提でこの先使う目的はないけど漠然な不安があるからキープしておこうというものだ。

 

まとめると私は友達が少ない上に貯金もできない。漠然とした未来への投資ができないのである。あとあと生きてくるんだと何回言われたことか。今ですら満足に生きていない私にとって酷なことだ。

 

友達は少ない方がいいだとか貯金しないでどんどんお金使う方が働き甲斐があっていいだとか言い訳するつもりもなく、そもそもできないのだ。

 

友達が少なくていいメリットは友達が多いメリットが周りを囲んでいる。

友達が多くできる人は浅く広くなんてことはありえない。全員に深くできるから友達が多いのだ。例えば友達は少ないけどなんでも話せるメンツがいれば他はいらないなんて思ってる人がいたとすればそれは大きな勘違いだ。友達が多い人はそのなんでも話せるコミュニティをいくつも持っているということで、悩みがあったとしてもより多角的な意見を聞ける。羨ましい。

そんな幸せなことがあるだろうか。悩みなんてないんじゃないかとさえ思う。

 

貯金も同様でお金があればいくらでもどうとでもその時にできるのだから幸せだと思う。

 

誰も言わないが幸せとは友達が多くて金がある人が受けられる恩恵である。そして自分では自覚できない。幸せとは評価であり、周りが見て決まることだからだ。

 

なんでこれを誰も言わないかといえばほとんどの人がそれを自覚していないのか、片方か若しくは両方が欠落しているのか、本当は分かっているけど今は内面の満足度の時代であって凝った趣味とか好きなものに没頭するのが幸せだとかほざいて自分に言い訳しているんだろうと思う。

 

ここまで書くと如何に自分が馬鹿かわかってくる。こんなことを今日電車の中で考えていて叫びそうになった。